1 妄念妄執 2 世尊我一心 3 三信愚説と言うなかれ 4 聖道門に入りぬれば 5 願作仏心 6 弥陀諸縁の宿善 7 仏智不思議の身とはなれ 8 我が身を思うは他力本願にあらず 9 智眼くらしとかなしむな 10 それ八萬の法蔵をしるというとも後世をしらざる人を愚者とす 11 不来迎の談 以上が三和先生がお聖人様より賜ったお言葉です。 この解説もまた、ご本人がされていますので頂きます。 また三和先生は教行信証を多く引用されております。 ここでは難しい言葉を止めて先生の言葉を中心に書いていきます。 中略とあるのは仏書からの引用の部分だと思ってください。 1 妄念妄執 私が毎日妄念ばかりの生活をしているものですから、それを反省させ 仏法の世界にいれさせんが為に 親鸞聖人様は 私にお言葉をくださったのです。 妄念妄執はまよったおもひ 間違った心をいふ 御文章に「当流の安心のをもむきは あながちにわがこころのわろきをも また妄念妄執のこころの をこるをもとどめよといふにあらず」等とある。 2 世尊我一心 (世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国) 「我は一心に」とは天親菩薩の自督(領解)の言葉である。 その意味は無碍光如来を信じて安楽国の往生を願い その心が変わらずに続いて いささかの自力の心がまじわらないのである。 3 三信愚説と言ういなかれ 阿弥陀仏の第十八願に衆生往生の因として誓われた 至心 信楽 欲生 の三の信心をいう。 しかしてこれを解釈するについて 仏の上について 行者の上についてとの両釈がある。 先ず、仏のうえについていえば 仏が衆生を救わんとする 真実心 智慧心 慈悲心 であるが これを本願の三信といひ 衆生のうえについていえば ただ、仏の三信を一信心として受得するのである。 これを機受の一心という。 一心はその信心の堅固にして疑う心なきをいひ 相続心は信心の常に絶ゆることなく余念のまじわることなきをいふ。 「定心とは」 深く仏法を体得して何物にも動揺しない 堅固な信心のことである。 4 聖道門に入りぬれば 浄土門に対す、 この世で聖者の位に入る門の意で 自力の教をいふ すなわち自力の教は、自分の力で此の世にありて聖者の証に進む道を説く故 親鸞聖人の教行信証 化身土巻に於ける・・・中略・・・ およそ釈尊一代に説かれた教の中でこの世界でさとりに入り 果報を得るのを聖道門と名づけ 難行道といってある この聖道門の中について大乗 小乗 漸教 頓教 一乗 二乗 三乗の法 権教 実教 顕教 密教 竪超の区別がある。 すべてこれは自力の法で衆生済度のために説かれた仮の手立ての教である。 5 願作佛心 自分が仏に成りたいと願う自利の願心で 菩提心の内容 教行信証より 善導太師が「専念」といわれたのは専一の行であってほかの行をならべぬことである。 ・・・中略・・・ この真実の一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。 この大慶喜心は真実の信心である この真実の信心は金剛のようにくだかれぬ心である。 この金剛心は自分が仏になる因をそなえた心 すなわち願作仏心である この願作仏心は衆生を済度する徳をそなえた心 すなわち度衆生心である。 この度衆生心は 衆生を安楽浄土に往生させる心である この心が「大菩提心」である この心は如来の無量光明慧 すなわち仏智よりおこさしめられるからである 弥陀の本願が平等であるから衆生のおこさしめられた信心も平等であるから その信心にそなわる知徳も平等である こういう大慈悲心をそなえた信心が浄土に至って仏果を開く正因である 6 弥陀諸縁の宿善 「宿善」宿世に修めた善根または今までに積み重ねた善根のこと ここで教行信証の総序の文を全て引用されています。 更に 7 仏智不思議の身とはなれ 8 我が身思うは他力本願にあらず までは教行信証の引用ばかりです。 9 智眼くらしとかなしむな 正像末和讃の中にあることばなので引用されています。 素晴らしい和讃ですのでしばらく引用させていただきます。 智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし 無明長夜の燈炉なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ 願力無窮にましませば 罪業深重おもからず 10 それ八萬の法蔵をしるというとも後世をしらざる人を愚者とす 八萬と言うほど多数にある教法の意 仏一代の教法を総称していふ 八萬四千の法門をいうに同じ 後生は後世といいうに同じ 後生の一大事について安心なき無信仰の人を後世知らずといい 其の信仰あるを後世を知ろという。 後生の大事を明かにし、迷いを転じて悟りを開くことこそ人間に生まれ出た意義でもあるのに それを取り失うた者は、たとひ如何に博い学問があっても、畢竟愚者といはれねばならぬ。 殊に仏教の経典を読誦し、その法義を学びながら自ら信じて安心することなき如きは最も愚者といわねばならぬものである。 「御文記事珠」には後世をしらざる愚者に二類ありとし、法海の「略述」には三類とし 一には世の放逸無慚の者 二には聰慧にして儒教神道を信じて後世あることを思わざる者 三には仏者の中に後世はありと知れども後世得脱の道を修せず 願わざる者 その中第三が愚中の愚なりと論じてある 11 不来迎の談 命終わるときに臨み仏菩薩の来迎を期待しない宗義のこと 他力信仰の上についていふ 即ち他力信心の行者は平生の時 浄土へ往生することが決定する故 臨終において更に来迎を待つ必要がないわけである。 執持抄に 真実信心の行人は摂取不捨のゆえに正定聚に住す 正定聚に住するがゆえに かならず滅度にいたる かるがゆえに臨終まつことなし 来迎たのむことなし等とあり 最後に親鸞聖人から 和歌の下の句をだされ 上の句を作れと宿題が出されたそうです。 そして完成されたのが次の句です。
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