浄土真宗
  なぜ衰退した?
  後生の一大事を閑却
      近代真宗教学に誤り

          岐阜県 真宗大谷派勝光寺住職 吉田賢祐氏 
 
これは平成元年(1989年)8月18日 中外日報 へ掲載された投稿文の題です。

この投稿文を三和先生は「仏恩抄」に引用されています。

以下吉田住職の投稿文を見てみましょう。

 
 今日浄土真宗が何故葬式仏教となり衰退したかの理由はいろいろあるであろうが、第一には後生の一大事であることを説かず 因果応報なるが故に来世なきにあらずということを説かなくなったからであり 西洋の哲学思想を混入したからであると思う。

私は幼少のころより父浄観から清沢満之 多田鼎 暁烏敏 曽我量深 金子大栄 高光大船 安田理深 各氏の教えを受けてきた。そして彼らの説く近代教学をもって是とし 信心はここにあると自認していた。

特に父が愛読した文は 清沢満之の絶対他力の大道「自己とは他なし 絶対無限の妙用に乗托して・・・・」の文と「我他力の救済を念ずるときは我が世に処する所の道開け・・・」の文である。

 また、晩年は曽我量深氏の宿業に聞けばよい。その照らす所に従って自然法爾に必要なことを選択していけばよい。・・・宿業の自覚 如来の光がこれを示す。
我々はその教えに従って道を行じ 道を行ずることによって本来性に還ればよい。・・・」の文であった。

そして他人を見れば誰彼なく、法論をし お前はまだそこまでしか来てないのか と人を見下した様な物の見方をし 結局 心許せる法友と言えば ごく限られた学友だけ。

名前をあげれば松原祐善(元大谷大学学長) 三上一英氏らである。

その中で同朋会運動を本山においても自坊においてもやってきた。

が 同朋会運動は初めは大勢集まったが次第にその人数が減ってきて 誰がやっても どこでやっても長続きせず 寂しく衰退していった。

何故だろうと疑問を持っていたが その原因が昭和61年1月4日 父が癌という病を告知されたとき 決定的となった。即ち

「おれが今まで学んできた教学が一切力にならん。どうしてくれるんや」と病院で私の妻の膝にしがみつき 告白したことだ。

それ以来 父は 大無量寿経 教行信証 和讃を必死に読んでいた。

そしてその年の10月 私の息子が後生の一大事の法話をし そのテープを病床に入る父に聞かせたのである。

すると 父は大変その法話をほめ 仏法は死後を説かねば仏法ではないと私たちに言い切ったのだ。

それ以来私と妻は経典や聖典のどこに死後や地獄のことが説いてあるかという一点にしぼって読みあさった。

そこではっきりしたことは 一番大事な後生の一大事が抜けていたということだった。

清沢満之氏の絶対無限の妙用というも 曽我量深氏の宿業に聞き本来性に還るというも 後生の一大事 必堕無限 因果応報 を抜きにした 自性唯心の弥陀であったことにあると思う。

即ち自分の心の中に弥陀を作り 自分の心に安住の場があると信じ聞かせ それを安心と思いこませて自然法爾に振る舞えばよい とした所に近代教学の誤りの根元があったと思う。

暁烏敏は軍国主義を是とするような言葉をはき 曽我氏の第一弟子の安田理深氏に至ってはマルクス主義者とも言えよう。

これは彼の7回忌法要の折 松原祐善氏がはっきり 「安田先生の思想の根底にはマルクス思想がありました」といっている。

今「自己とは何ぞや」ということから解放同盟に糾弾を受けつづけているが 私の父もそうであった様に まだお前はそんな所に居るのかと 人より一歩上に自分を置き 自分は観念的な自己流の自覚の上に立っている鼻持ちならん増上慢を糾弾されていると思わねばならない。

なぜなら進歩的と言われる改革派の真宗教団の体質がそうであるからである。

 ここで再び 臨終間近になった父の言葉を思い出す。

「仏法は他宗のようにやさしいお伽話を大切にしないかん。坊主が話すとむつかしくしてしまう」そしてまた 「時々解ったというような安心は一つも解っとらんのだ。信楽を受持することは難しいぞ。聖典の語を覚えようとするな。常に自己に問え。今の世の中めちゃめちゃになっている。これを正すのは仏法者以外におらん」

 死を目前にした父の言葉は一言一言が金言であった。

自分が死に向かってはじめて無明の我が身の姿を見せつけられたのだ。

無明とは後生暗い心だ。

阿弥陀の本願を疑う心だ。

三毒の煩悩ではない 根本煩悩だ。

この無明の闇をぶち破ることは難中の難だ。

人生の究極の目的は 死が眼前に迫っても崩れない幸せのみにさせてもらい 無明の闇をブチ破ることである。

 今日 青少年の凶悪犯罪が増加したのも 罰が当たるぞ 罰あたりめ と因果の道理の教えが日本人全体に薄らいだからだと思う。

三世を貫く因果の道理を信ずることが仏教の第一歩である。

蓮如上人も「後世を知らざる人を愚者とす」と教えておられる。

 今 大谷派は蓮如教学として一段下の方に置いているようだがとんでもない誤りである。

切り捨てなければならないのは近代教学である。

親鸞聖人が法然聖人に出会われ確信された時のすざましい姿を我々も学ばねばならぬ。
 
 
東本願寺の清沢満之氏は西洋哲学を取り入れ「信念」とい言葉を使っておられたようです。

しかし信念という響きには「自己の心を運びて掴んだ信」のような感じがするのは私だけだろうか。

初めて清沢満之氏の文献を読んだのははるかに古く、仏教を学び始めた30年も前であるが、そのころは良く分からなかったが、西本願寺の僧侶の文献とは全然違うな 良く解らん 説教だなと感じて居ました。

最近になってその違いが良く解ります。

明治からすでに100年以上も経つのに いまだに東本願寺の教えは間違っているようです。

時折 東本願寺の僧侶の方と話していると お浄土にはどうしたら行けるのか良く解らない話をされます。

そして「西本願寺からみると私たちは異安心だそうだが、西本願寺の教学は江戸時代のもので 古い」とのこと。

教学は古いか新しいかではなく、真実が説かれなくては何もならない。

哲学的な真理の探求の結果はどうなったのか?

それを示す文献があります。

   

哲学者も生きる目的は分からない

真理を探究する哲学者たちも、誰も分かりません。

倫理哲学者のフィリッパ・フットもこう言います。
現存の哲学者であれ、過去の哲学者であれ、
命に価値があるというこの観念を説明できた人を私は知らない

(フィリッパ・フット『道徳的相対主義』)

確かに、20世紀最大の哲学者の一人、ウィトゲンシュタインも、
有名な『論理哲学論考』の最後にこう言っています。
たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、
生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう

(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

現代の哲学者・トマス・ネーゲルもこう言います。
人生は単に無意味であるだけではなく、
不条理であるかもしれないのです

(トマス・ネーゲル)

このような特に頭のいい知識人たちでも分からないほどですから、
本当の生きる目的はそう簡単に分かるものではないのです。


・・・中略・・・

・・・この「不条理」は、日常的にも使われる言葉ですが、
哲学の用語にもなっています。

それはノーベル賞を受賞した、フランスの作家・哲学者である、
アルベール・カミュが、
1942年の『シーシュポスの神話』で大きく取り扱ったからです。

それは衝撃的に
本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である
と始まります。

カミュは、当時、不条理の感覚があちこちに見いだされ、
多くの人が、人生が生きるに値しない
と考えるがゆえに死んでゆくのを目にした
」ことから
人生の意味こそ、最も緊急な問題だと判断」します。

普通、不条理というと、単に世界に意味がないことのように思います。
実際に、哲学では、世界にも人生にも意味が見いだせません。

ところがカミュはもう少し深く考えて、
人間が心の底から狂おしいほど世界の意味を知りたいのに、
世界に意味が見いだせない
」ことを
不条理と言っています。

不条理なら自殺すべき?

そこでカミュは、不条理であれば自殺すべきかという問いをたてます。

カミュはまず、これまで不条理について考えてきた、
ヤスパースからハイデッガー、
キェルケゴールからシェストフ、
フッサールなどの現象学者たちからシェーラーなどが
世界に意味を見いだせなかったことを確認します。

中でも、ヤスパース、シェストフ、キェルケゴールなどは、
世界に意味を見いだせないために神を持ち出し、
フッサールさえも永遠の理性を持ち出しますが、
これは飛躍であり逃げであって正統な態度ではないとし、
哲学的自殺」と名づけます。

そして、肉体的に自殺することは、不条理への反抗ではなく、
同意であって、これも問題を回避する逃げなので、
自殺では不条理は解消できないと考えます。
それにもかかわらず自殺するのは、認識不足であると言います。

それよりも、人間は死刑囚と同じだが、
その不条理を常に意識してそれに反抗して生きることが
自殺とは全く異なり、よりよく生きることになるとします。
その場合、自ら命を断つのと反対に、
少しでも長く生きることが大切だといいます。

世界に意味がないのに、それをあると思って意味を探すことは
それに縛られることになるので、不自由になり、
世界に意味がないと自覚することが、
より自由に生きられ、そこに人間の気高さあると言います。

まとめると、カミュは、不条理に対して
1.哲学的自殺
2.自殺
3.不条理に反抗して生きる
の3つの選択肢を示します。

1つ目の哲学的自殺とは、
不条理を解消せず論理的には飛躍して神などを信ずることです。

2つ目の自殺も、不条理は解消されません。

3つ目は、不条理を意識して生きることです。
これによってより気高く自由に生きられると言います。

カミュの3つの問題点

ところが、このカミュの議論には問題点が3つあります。

1つは、カミュ自身は不条理に対する選択肢の3番目をとり、
不条理を意識して少しでも長く生きると言いますが、
それでも不条理は解消されないことです。
答えになっていないのです。

2番目に、世界にも人生にも意味はないとしながら、
自由や人間の気高さを価値あるものとして、
意味を見いだしていることです。
これは自らの出発点の前提と矛盾します。

3番目は、世界に意味を見いだすことは不可能
としているところです。
もし世界に意味が見いだせたら話は
根底からくつがえります。

 

長南先生監修の「仏教ウエブ入門講座」より引用させていただきました。

哲学は人間智の最高峰であっても死の解決をできた人は一人もいないのです。

仏教ではすでに「生きる意味」「生きる目的」を2500年も前に示しているのです。

更に仏教の真理ははるかに現代の知者である哲学者の醸し出した哲理より上であり、格段に深いものがあります。

生から死後の世界まで通しての解決がそれです。

死の解決ができるのは仏教のみで、しかも凡夫が仏に成れるのは阿弥陀様の本願力以外にないのです。