哲学者も生きる目的は分からない
真理を探究する哲学者たちも、誰も分かりません。
倫理哲学者のフィリッパ・フットもこう言います。
「現存の哲学者であれ、過去の哲学者であれ、
命に価値があるというこの観念を説明できた人を私は知らない」
(フィリッパ・フット『道徳的相対主義』)
確かに、20世紀最大の哲学者の一人、ウィトゲンシュタインも、
有名な『論理哲学論考』の最後にこう言っています。
「たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、
生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう」
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)
現代の哲学者・トマス・ネーゲルもこう言います。
「人生は単に無意味であるだけではなく、
不条理であるかもしれないのです」
(トマス・ネーゲル)
このような特に頭のいい知識人たちでも分からないほどですから、
本当の生きる目的はそう簡単に分かるものではないのです。
・・・中略・・・
・・・この「不条理」は、日常的にも使われる言葉ですが、
哲学の用語にもなっています。
それはノーベル賞を受賞した、フランスの作家・哲学者である、
アルベール・カミュが、
1942年の『シーシュポスの神話』で大きく取り扱ったからです。
それは衝撃的に
「本当に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である」
と始まります。
カミュは、当時、不条理の感覚があちこちに見いだされ、
「多くの人が、人生が生きるに値しない
と考えるがゆえに死んでゆくのを目にした」ことから
「人生の意味こそ、最も緊急な問題だと判断」します。
普通、不条理というと、単に世界に意味がないことのように思います。
実際に、哲学では、世界にも人生にも意味が見いだせません。
ところがカミュはもう少し深く考えて、
「人間が心の底から狂おしいほど世界の意味を知りたいのに、
世界に意味が見いだせない」ことを
不条理と言っています。
不条理なら自殺すべき?
そこでカミュは、不条理であれば自殺すべきかという問いをたてます。
カミュはまず、これまで不条理について考えてきた、
ヤスパースからハイデッガー、
キェルケゴールからシェストフ、
フッサールなどの現象学者たちからシェーラーなどが
世界に意味を見いだせなかったことを確認します。
中でも、ヤスパース、シェストフ、キェルケゴールなどは、
世界に意味を見いだせないために神を持ち出し、
フッサールさえも永遠の理性を持ち出しますが、
これは飛躍であり逃げであって正統な態度ではないとし、
「哲学的自殺」と名づけます。
そして、肉体的に自殺することは、不条理への反抗ではなく、
同意であって、これも問題を回避する逃げなので、
自殺では不条理は解消できないと考えます。
それにもかかわらず自殺するのは、認識不足であると言います。
それよりも、人間は死刑囚と同じだが、
その不条理を常に意識してそれに反抗して生きることが
自殺とは全く異なり、よりよく生きることになるとします。
その場合、自ら命を断つのと反対に、
少しでも長く生きることが大切だといいます。
世界に意味がないのに、それをあると思って意味を探すことは
それに縛られることになるので、不自由になり、
世界に意味がないと自覚することが、
より自由に生きられ、そこに人間の気高さあると言います。
まとめると、カミュは、不条理に対して
1.哲学的自殺
2.自殺
3.不条理に反抗して生きる
の3つの選択肢を示します。
1つ目の哲学的自殺とは、
不条理を解消せず論理的には飛躍して神などを信ずることです。
2つ目の自殺も、不条理は解消されません。
3つ目は、不条理を意識して生きることです。
これによってより気高く自由に生きられると言います。
カミュの3つの問題点
ところが、このカミュの議論には問題点が3つあります。
1つは、カミュ自身は不条理に対する選択肢の3番目をとり、
不条理を意識して少しでも長く生きると言いますが、
それでも不条理は解消されないことです。
答えになっていないのです。
2番目に、世界にも人生にも意味はないとしながら、
自由や人間の気高さを価値あるものとして、
意味を見いだしていることです。
これは自らの出発点の前提と矛盾します。
3番目は、世界に意味を見いだすことは不可能
としているところです。
もし世界に意味が見いだせたら話は
根底からくつがえります。
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