私の母はリウマチになり、長い間療養生活をしておりましたが、最後の2ヶ月は親類兄弟家族にて最高の親孝行ができました。
私の妹の夫は内科医で病院を経営しておりますので、毎日のように看護婦をつれて大垣市内の私の家まできてくれました。
病院に入院している以上の治療をしていただき、母も幸せであると常々申しておりました。
しかし 三月二十四日ふるえがきて発熱がおこってから意識がはっきりせず、私がだれであるかさえ分からなくなってしまい、時々私の弟の名前を言ったりしました。
どうも頭のどこかで血管が詰まっているような状態でありました。
ところが三月二十七日の夜は不思議に母の頭がはっきりとして二時間くらい家族4人(妻と大学生の子供二人)で仏法や色々の話をしました。
私は今日のこの機会を阿弥陀様がつくって下さり、最後の家族とのお別れ会をさせて下さっているのだと感じておりました。
母は「大変お世話になった」と感謝の気持ちを表し、私も最高の満足感にひたっておりました。
そのうちに母はこのように申しました。
「あのな 私は浄土へかえるけど 仏の因縁をもって往生するの」と四人で聞いていたのですが、確かにこのように聞こえました。
これまで母は浄土真宗の教えに大変熱心でありましたが、私はかねがね母の往生について、本当に大丈夫かと心配しておりました。
共に勉強をしてきたのですから、私自身の往生と同じ重みをもっており、私にとっても重大な問題でありました。
私はこの母の言葉を聞いた時、これは阿弥陀如来様が私が心配をしているので母の口を動かして私を安心させるためにお言葉を下されたのだと思いました。
これは仏智の不思議でありましてどう考えても母の口からこのような言葉がきけるということは私自身考えられないからです。
その夜私は母と二人で仏法の話を更に一時間しました。
二十八日からはもとのごとく意識がはっきりせず、昨晩のことが夢の中の出来事のように感じました。
三十一日の夜になり、二人の時のように申しました(母は苦しそうで、その時も体をさすっておりました)。
「もうあかん 終わりや」と声を出して言い 私は返事に困ってしまいました。
それから母は「あのな 七日に浄土に行って仏になる」と申しました。
そして「私オシッコがでたので たてないので たのむ」と意をもうしました(尿は看護婦によってベッドの横の袋の中にたまるようにしてありました)。
ますます往生について確信を持つことができました。
四月五日の朝八時三十五分 母は往生致しました。
まことにめでたく有り難いことでした。
結局葬儀は七日と決まり、母の予告は葬儀の日となりました。
如来様がこのことも教えて下されたのだと思います。
母の死相はとてもすばらしくだれもが感心しました。
これが病気をしていた母の顔かと思えるくらい気品があって、私も感心しておりました。
葬儀は関ケ原町今須の本家で行いました。
通夜の時は百五十人くらいの弔問者の前で私は三〇分ほど仏法のお話をしました。
聖人ゆかりの八房の梅は満開で会葬者の心もなごんだことでしょう。
天候にも恵まれ三日間とてもすばらしい日和でした。
ほんとうに仏に感謝しなくてはなりません。
まもなく三十五日の法要の日が来ました。
僧侶はその日は私を入れ三人でありましたが、参詣人五十人ほどの前で法話を三〇分くらいさせていただきました。
五月一〇日は仏恩抄の中の水谷先生宅にお礼に伺いました時 八幡大菩薩が私に歌を下さいました。
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母が弥陀の浄土へ往生したことを八幡大菩薩は教えて下されたのであります。
なんとも有り難く嬉しく、これで絶対に間違いないことを確信させていただけたわけでございます。 合掌
(注)母の言葉「七日に浄土に行って仏に成る」については皆さんに報告してありましたので、幾人かの人たちが承認してくださいます。
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