今まで仏恩抄の骨組みをあらかた書いてきましたが、三和先生が御同行御同朋としてご尊敬申し上げておられた先生方のご著書を沢山引用披歴されています。 日野振作先生、原田双栄先生、加茂仰順先生や三和先生に仏書を推薦してくださった 故高木明義さまの師匠である「法雷会(神戸に本部)」を主宰されていた、故稲垣瑞剣法師のご著書など、それはそれは沢山の著書を披歴されています。 いずれも、いずれも切れ味鋭い著作ばかりで、法剣と申せます。 浄土真宗に縁があり、信心を求めている方なら、この鋭さに恐れをなすかもしれません。 この著作物のどこを読んでも、獲信の方は「しかり、しかり」、未決定の方は気の引き締まる思いがするものと存じます。 私もこの法剣で貫かれた一人です。 なぜならこれら法剣(著作物や獲信者)のうしろには阿弥陀如来様の智慧(本願力)が貫かれているからでございます。 信心は蓮如上人が「五重の義」を建てられるように、宿善をはじめ弥陀の信心を宿されている善知識を通じて、私の信心は獲得されるのもです。 そこでその法剣の一部をご紹介します。 殊に加茂仰順先生の信心に関する著書から抜粋してお届けいたします。 (かなり長いです)
・・・他力の信心・・・ ―どことなく、何となく心細いのはどうしたものか― 1章 浄土真宗の目的は、もとより申すまでもなく、命終わればお浄土に参らせていただくということでありますが、そのお浄土参りの目的を遂げるには、他力の信心を決定せねばなりません。 その他力の信心とは、お浄土参りに安心することではなくて、助けねばおかんとある弥陀の親心に安心することであります。 つまり弥陀の助けねばおかぬの御親切に安心するのが、信心であるということは、いつも聴聞していますが、大概の人は、死んでお浄土に参らせてくださるに間違いないと思えるのを信心と心得て、お浄土参りがたしかに思えないのが疑いで、まだそれは信心がいただかれないのだとなげきます。 そこでただお浄土参りがはっきりなりたいと苦しんでいます。 これが自力の心で、弥陀の働きとは反対の姿であります。 なぜそれが自力の心でああるかと申しますと、お浄土というところはどれほど私たちがはっきりなりたいと思うても、それは決してはっきりなれる所ではありません。 はっきりなりたいと思えば思うほど苦しんで、悩みぬくことがあります。 それでお浄土は凡夫としては、どうしてもはっきりなれないというわけをよく聞かしていただかねばなりません。 お浄土と我々の世界とは52段階も世界が異なっているのです。 世界が違うということはおそろしいことで、一段の違いでも、もはや分かるものではありません。 犬と人間とは僅かの世界の違いですが犬には人間の世界のことを話してもわかるものではありません。 まして52段も世界が隔たっているお浄土のことを、人間がここからどれほど思い計っても分かるものではありません。 そうした想像をすることも思うてみることもできないお浄土に、参られるにまちがいないと、はっきり思われるようにならねば、参らせてくださるまいと思うのが、これがそもそもの間違いであります。 何が間違いかというても、これほど大きな間違いはありません。 この間違い心を自力疑心というのであります。 ところが案外にここを間違えておりまして、お浄土へ参らせていただけると、はっきり思えるようになったのが、それが信心をいただいたのであると思うていますから、どれほど聴聞しても信心が決定しないのです。 真宗はここがとても大切です。 それならば真宗の信心は、いつまでもお浄土参りははっきり思えぬかと云えば決してそうではありません。 信心が頂かれるならば、阿弥陀如来から智眼というて、智慧の眼を頂きますから、見えないお浄土が見えたより確かに拝まれるのです。 だからお浄土参りは大丈夫というのはご後念にまわして、まず一念の信心を決定させていただくのが大切であります。 2章 そもそも信心というのは、真宗だけで用いる言葉ではありません。 どの宗旨も、信心を肝要とするのは勿論ですが、真宗の信心は他の宗旨と異なって優れたいわれがあります。 他の宗旨の信心は、自分で思い固める信心ですが、真宗の信心は阿弥陀如来から頂くところの他力廻向の信心であります。 この他力廻向の信心とは、阿弥陀如来が私の往生を今決めて下さる親心の頂けたのであります。 これを聞き損なって、死んでお浄土に参らせてくださることがはっきりなったのがご信心のように思っていますから、お浄土に参らせて下さるとあきらかに思えなければ、信心をいただいてはおらないと苦しむのであります。 真宗はお助けの働きを頂けたのが信心であります。 これを平生業正定聚のお助けというていま往生を定めて下さるお助けのいただけたのが信心であります。 唯今、正定聚のお助けに預かるならば、臨終はいつ、いかなるとき、どんな死に方をしようとも、死は前世の業因にまかせて、もしや火に焼かれて死んでも、水に溺れて死んでも、気が変になって後生菩提を忘れて死んでも、死の有様にかかわらず、往生一つは大丈夫、いのち切れたその時がお浄土へ生まれることができます。 これが平生業成のありがたいところであります。 他のご宗旨では、臨終は正念でなければ来迎にあずかれません。 来迎にあずかるまでは安心ができません。 ところが真宗では常来迎と申しまして、一念の信心が決まるなり、そのときすでにお守りに預かって、往生は決めて下さるゆえ、この体の死ぬるときに、また改めて来迎を受ける必要はありません。 これを不来迎といいます。 一念の信心が決まるなり、お浄土参りは、決まります。 本当に正定聚のお助けにあづかっておらないうちは、ただ口先ばかりでありがとうございますと、喜んでいても、腹の中に何物もありませんから、いよいよまでかけるとなったら明らかに参らせるてもらえると思えないから心配が出てまいります。 そこでお浄土参りがはっきりなりたいならば、まず信心をいただけ、信心をいただくにはお浄土には心を向けず弥陀のご親切を聞くことです。 弥陀の御親切とは、堕つる参るの心配は、いま弥陀が引き受けるから、そちが往生は我にまかせよとあるご親心のこと。 この親心が聞き得られたら、こちらからお浄土といわなくとも、お浄土は放っておいても大丈夫。 いついのちが終わっても、参らせて頂けると思うても、思うまいと、思わねばおられぬことになります。 本願のお助けの得られてみれば、この体は凡夫の体でありますから、死ぬるまでは三毒の煩悩も起こりますけれども、はやすでにお浄土の仲間入りと決まりがついているので、命終わり次第にはまちがいなく往生させていただくと喜ばれるぞと仰せられるのです。 このように真宗のお助けは、生きている今、正定聚のお助けにあづかったのが信心であります。 この信心をみなまちがえて死んでから先のお浄土に参る道具に使うていますが、これなら信心は死に道具になってしまいます。 死んでからお助け下さることに夜明けするを信心というのは真宗ではありません。 真宗は間違いのない、お助けの得られたのであります。 蓮如上人の御文章(1帖目4通)にご自問ご自答なされて、平生業成のわけを問わせられ、そのお答えに「おほよそ当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我らをたすけたまうことはりをききひらっくことは、宿善の開発によるがゆえなりとこころえてのちは、我が力にてはなかりけり。仏智他力のさづけによりて本願の由来を存知するものなりとこころうるがすなわち平生業成の儀なり」と仰せられてあります。 そこで阿弥陀如来の本願とは、南無阿弥陀仏の六字の本願のことで、平生とは今ということ六字のお助けに遇いたてまつることが、一念発起平生業成の信心であるぞと示し給うのであります。 次に「問ふていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか。また二益とこころうべきや」「答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。次に滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり」と御示しくだされています。 阿弥陀如来はいま助かることに決めて下されても、この体がある間は、仏にはなれません。 いまお浄土に参ることが決まったから、ついでにこの体もいまお浄土に参らせて仏にすると言われたら何とするか。 お浄土参りはしばらく待ってくださいと逃げ出しはせぬか。 お浄土お浄土とは、口先ばかりで言うことで、今となったらお浄土参りはいやなのが私たちです。 人間界よりお浄土が好きか嫌いか。 そんなことを知らない親ではない。 嫌なお浄土なら急いで来いとは云わぬ。 好きな娑婆に、なるだけゆっくり逗留せよ。 お浄土参りは人間の業報の尽きるるまでは、いつまでも待ってやる。 そしてそちが娑婆に滞在の間、毎日造る三毒の煩悩は往生の妨げをさせぬように、この弥陀が付き添って護りづめに護って、三毒は起こるはしから無碍の光明を以て始末をつけてやるで何も心配せずと、ゆっくり逗留せよ。 これが阿弥陀仏の4字のお心であります。 南無阿弥陀仏、のお助けに助けられるばかりであります。 3章 花を作るにしても、種を蒔いたばかりでは美しい花は咲きません。 草を取ったり、肥料をやったり水を掛けたりしてやらねば美しい花を見ることはできません。 信心もその通りで、三毒の真ん中に仏心の信心が宿るには、邪見をとったり、懈怠の草を刈りとり、後念相続の歓喜の花を咲かせてくださるのは決して自力のしわざではありません。 これぞ、まことに護りづめに護って下さるお慈悲のあらわれたすがたであります。 真実信心必具名号というは 「摂取の力にて名号おのずから称へられるなり」また「懈怠の下にたしなむもみな他力なり」 とおおせられてあります。 「煩悩眼障へて、見たてまつらずといへども、大悲倦きことなくして、常にわれを照らしたまへりといへり」とはここのことであります。 この通りにお浄土参りの因を蒔きつけていただいて、摂取不捨の手入れもとどいてみれば、見えぬお浄土が見えたよりたしかに思われて、喜ばしていただくのであります。 ・・・中略・・・ 三界の永い迷いの根元の堕ちる機の暗闇は、今阿弥陀如来が消し滅ぼして下されて、仏心を与えて臨終までは付き添って護っていただくことと、お助けの六字の働きが得られたならば、何時いのちは終わろうとも、見えないお浄土が見えたより、たしかに拝まね弥陀が拝んだよりもたしかに、人の知らぬ喜びがあります。 これが因中摂果法の道理であって、お浄土を見たようにはっきり思うて喜ばれるのであります。 |