名号不思議の信心(2)・・・加茂仰順先生

 
  4章

 もしもここに六月の田植えもせず、手入れもせずに、これでお米が八俵とは有り難いというものがいたらおかしいことです。

これを無因有果と云いまして、浄土往生の因なしで果を採るという信心であります。

これを言うてみれば、よく聴聞をせずにいて、いつ命がおわろうとも、お浄土に参らせて頂けると思うているようなあらましな聴聞でいるようなものであります。

 さらにこれを言うならば、まずお浄土を信心の的に立てて、お浄土には信心をいただかねば参られぬから、それでまず信心をもうろうて、お浄土に参らねばならぬと信心を欲しがるのです。

これは大変なまちがいです。

お浄土というところは決して信心の切符で参れるところではありません。

お浄土参りには信心とか何とか、そんなお土産はいりません。

こちらで信心をもっていかねば参られぬお浄土なら、他力ではありません。

ところが、だれでも初めは、参らねばならぬ、堕ちてはならぬの一本槍で、お浄土参りを的にして一生懸命聴聞するうちに、これでこそお浄土参りは間違いないと鬼の首でもとったようなうれしい信心ができる。

しかしこの自分で造った信心で皆地獄に堕ちる。

蓮如上人は得ぬなりと仰せられたのは、ここの危ないことを教えてくだされたのであります。

つまりお浄土参りにまちがいないと思える、これが信心が頂けたと決めるのです。

この疑い晴れた信心をいただいたから、参らせてくださるときめるのです。

この信心は元気な時はそれで安心して喜んでいられるが、いよいよ今宵にも出かけねばならないと大事をかけてみれば、心細い不安がいっぱいになります。

達者なときはいつ出かけても大丈夫のつもりでありましたが、さて、今となってみれば、何となく心細うてはっきりと参られそうな気になれません。

後生はつかまえどころがなく、未来はまるで方角たたずの真っ暗闇です。

こうなってみれば、いままで頂いたご化導も役に立たず、信じたと思うた思いも間に合わず、ただあるものは後生はどうなることやら、こんなことではどうしよう、どうしようの心細い苦しい思いばかりであります。

このように臨終のここで、頂いた信心はがらりと崩れてしまいます。

これでは折角永い間聴聞したご化導も水の泡となり、聴聞もろとも信じたと思う信心ぐるみに堕ちてゆかねばなりません。

それならば正しいものはどうであるかと申しますれば、誰でも後生の一大事が真剣になってきますと、臨終を引き寄せて、いよいよ出かけるがよいかと我が心に相談してみれば、お浄土参りがはっきりと思われません。

どことなく、何となく心細いという機がでてまいります。

これが出てきたらこの機はなかなか片づく機ではありません。

この機の目につくを、後生大事の宿善の機の目につくを、後生大事の宿善の機と云います。

これは法に照らさねば出てくる機ではありません。

それならこの暗闇は気が付いたときに出来たものかというと、そうではありません。

過去久遠劫の昔から持ってきた無明業障の恐ろしき病であります。

これが後生に大事が掛かってくるまえは、どこかにかくれていたのが、後生大事がかかると、遍照の光明の光に照らされて、この暗闇が目についてくるのです。

如来は遍照の光明で、この機を照らし出して下されて、我にまかせよ、必ず助けると呼びかけ給うのです。

そこで聞信の一念の所にはこの心配の機を引き受けて下さるのであります。

この何となく心細いという機が、これが根をただせば根本無明の堕ちる機でありますから、これを光明のお力によって取り除いていただくのであります。

光明のお力とは、諸仏のご教化でありますが、それはいまこうしてご法談に遇わしていただいているこのことが光明のおはたらきに遇わしていただいているのです。

この光明の働きによって、「おれが」の計らい心が取り去られて、お名号をすなおにいただかせていただくのであります。

これがお助けにあづかったのであります。


  5章

 さて前にも申し述べましたように、お浄土に参らせてくださるにまちがいないと思われるのが信心であると思うのはまちがいであります。

信心とは死んでからお助けにあづかることではなくて、「いま」お助けにあづかることであります。

今のお助けとは性根心地のたしかな今、堕ちること、お浄土へ参ることに決まりをつけていただくひとおもい、これを正定聚のお助けと申します。

いま正定聚のお助けがすめば、死ぬるまで頂いた信心のおかげで、今生はやすやすと過ごし、娑婆の縁が尽きたら、いつでも往生一つは大丈夫と喜ばれます。

これが平生業成のお助けの姿です。

ここを間違えて、死んでからお浄土に参らせてくださることに、夜明けすること信心がいただけたと思います、とは、これは大きな間違いであります。

一生懸命に聴聞するうちに、どうかすると、これでこそお浄土参りはまちがいないと安心する場合があります。

その時はこれで信心がいただけたと、まるで蓮台に乗ったような気になって喜びますが、その機は長く続きはいたしません。

長くて5日か10日で、いつの間にやらなくなって元の木阿弥です。

そしてこんな筈ではなかったがとまた苦しみ始めます。

そしてまた聴聞するうちに信心がもらえたと喜んでいますが、またなくなります。

それが2度や3度ではありません。

今度こそこれでと、なんどやっても同じことです。

恥ずかしくて人にも言えない有様です。

これが若存若亡の信心です。

こうして同じこと係繰り返しながら、私はなぜいつまでもあともどりするのであろうかと苦しみながら、もとの三悪道に堕ちていきます。

これは決して他人様のことではありません。

この自分のことではありますまいか。

 このように何遍でも信心が後戻りをするのは、これはみな信心の筋を聞き違えているからであります。

どのように聞き違えているかと云えば、お浄土に参らしてもらうと思えるを信心と聞き違えているのです。

この聞き違い一つでいつまでも安心ができません。

お浄土は五十二段も境界のちがうところですから、私たちがどのように考えても、思い計ることの出来ないところです。

その思いはかることのできないお浄土に、手を掛けようとすること自体が間違いで、折角阿弥陀如来が頂きやすく成就してご廻向くださる信心を、自分勝手にむつかしいものにしているのです。

ここでは自分の方角違いであったことに気が付き、阿弥陀如来の本願をよくたずねて聞かねばなりません。

阿弥陀如来のご本願は、凡夫が浄土に参られるとなれる機に合わせてできた本願ではなくて、どうしてもまいられるとなれない気を助けるために成就して下された六字の本願であると聞かせていただいたら、お浄土参りがはっきりなりたいという思いは、阿弥陀如来の本願に反対した自力の機であることがよく知られるのであります。

 そこで、お浄土参りがはっきりなりたいと思う機は間違いの機で、どうしてもお浄土へ参られるとはなれない自分であると知らされるのが真宗であります。

 いま、自分は出かけるが後生はよいか、大丈夫かとやってみますと、長い間聴聞しているので、阿弥陀如来のお助け下さるお慈悲には安心させて頂いて喜ばしてもろうていますから、よさそうなものと思うていますけれどもが・・・。

「けれども」がでは言葉に濁りがあります。

いまそれをありていに申しますと、たった今出かけるとなるとどんな気持ちがするかと云えば、今までは大丈夫と思うていた思いはどこへやら、なんとなく心細いような気持がしてきて、お浄土参りがはっきり思えません。

もし間違っていたらとりかえしのつかない一大事ですから、まだ本当に死ぬのではないので、今の内なら間に合いますから、念のために今一度真の善知識に遇ってよく聞かせてもろうてよく聴聞して、それから出かけたいものです。

・・・誰でも案外こんなことを申してはいませんか。

これが浄土へゆけるようになれる機を欲しがっている証拠です。

 しかしお浄土参りがはっきりなれないままでは気が済みませんから、ここでかねて聴聞しているように、このままのお助けを持ち出して、かかるものをこのままお助けと押し付けて、ありがとうございますと、「なんまんだぶ」で、ごまかして片づけていませんか。


  6章

 いままでは、いつ何時死んでも大丈夫と、参るつもりの助かるつもりで、喜んで安心しておりましたが、たった今と思いますれば、どことのう心細うなってきました。

今となってそんなことを言うてどうする。

もはや臨終が迫っておるではないか。・・・・

 それで心細うなりました。

今まで無常無常と云うていましたで、大丈夫なことも言うておりました。

いよいよ今と迫ってみれば、参れそうにもありません。

後生となったら真っ暗闇、未来はまったく方角が立ちません。

こうなってみれば、これまでの聞いたご化導も役に立たず、大丈夫と思うた思いも無くなり、信じ心も間に合いません。

今では喜びどころではなく、ただ苦しいばかりであります。

しかし、しかし、この機が阿弥陀如来のいちばんご心痛になったものです。

何故かと云うに、このご本願はこのなれぬ機を助ける為に成就して下されたのです。

そこでいよいよなれぬ機としらされたまんまに、本願の仰せが響き渡っているのであります。

なれぬこの機は、これが根本無明でありますから、一番恐ろしい機です。

無始より今日まで、迷いの世界をひきづり廻したのもこの機であり、これからさき無終にひきづり廻すのもこの機です。

これも如来の光明によって照らし出されたればこそ、知らせていただくのです。

お浄土参りがはっきりなれぬことに困っているであろうが、この弥陀はその機一つが涙のタネ。

なれぬその機はそちが手で始末のつかぬことを、法蔵因位の時に見抜いて建てた本願じゃで、そのなれぬ機は弥陀がいま受け取って始末をつけて、助けるためにできたこの弥陀じゃぞよ。

その機を受け取ることを思案したのが五劫の間、受け取る下での願行は、兆歳不可思議永劫かかって作り上げたのじゃ。

弥陀が正覚を取ったのは、我が身の楽しみのためではない。

そちが今困っている、その機を引き受けて助けるためであるからは、その機がよくなる位なら、五劫の思案も水の泡、永劫の修行も無駄骨折り、その機一つが受け取りたいばかりに、十劫このかた今日まで座る閑なく立ち詰めで待ち通しに待っている故、その後生の心配は弥陀に渡して、そなたの方は往けぬ往けぬの世話は止めよ。

いま弥陀が引き受けて、正覚の命がけでも落しはしない。

もしや落としたらそなた一人と思うなよ、たとい焔の中までも付き添うて離れはせぬほどに、離れぬ親をあてにせよ。

付き添う弥陀を力にせよ。

これが呼び声。

この如来の仰せを聞かしてもろうてみれば、まるで方角ちがいでありました。

いままではお浄土参りがはっきりなれねば、とても助けては下さるまい。

なれぬのはまだ聞こえぬのじゃろうと、一生懸聞いても聞いてもなれません。

聞けば聞くほどなれませんので、私に宿善が無いのじゃろうかと心配していましたが、なれぬこの機を受け持つ親様がましますのであれば、こんな有り難いことはありません。

この機を親様が受け持ってお助けくださるならば、今からは、この私の心がウンと言おうが言うまいが、心配いりません。

自分で往く浄土ではないから、この機にはさらに用事なしです。

それではお浄土はどうするか。

それはあなたにおまかせしました。

まかせたらお浄土参りはどうなるか。

それは私の知ったことではありません。

やろうやるまいはあなたのおはからい。

私の力の及ばぬことが知れましたが、私のこころの安心場所はどこに座りをつけますか。

それはいつも付き添うて離れてくださらぬのであれば、お浄土参りは大丈夫と、すぐに往生の安心がでてきて喜ばれるのであります。