2013年12月14日

阿弥陀様の救いは誰にむかっているのか?

初めにとんでもない出来事を書いてしまいました。

でも、奇跡無き宗教はありません。

また、奇跡無き宗教はただの道徳でしかありません。

多くの宗教家たちには幾多の奇跡(=宗教的出来事)や感応道交があります。

こう書くと宗教とはとんでもなく非科学的で、変人の戯言にしか過ぎない、と思われがちですが、それこそ誤解です。

宗教的奇跡や霊性の直覚は向こうからやって来るのです。

このため、多くの方には理解できないことなのかもしれません。

浄土真宗の信心は特にそうです。

阿弥陀様から「救うぞ」との呼びかけが、突然、ふっとやって来るのです。

いつ来るか、「今でしょう」と言いたいのですが、それは阿弥陀様の御心に任せるしかありません。

逆に言えば常に来ています。

常に阿弥陀様は呼びかけられています。

そのことに私たちが気づいていないだけなのです。

ですから「今でしょう」は正解でもあるのです。

一般的な宗教は半自力半他力ですから、ここまでは自分で修行しなさい、後は神仏が助けてあげる、の世界です。

でも浄土真宗の救いは自分から持ち出すものは何もないのです。

空っぽの世界なのです。

「仏法は無我にて候」とは浄土真宗8代宗主蓮如上人のお言葉です。

もとより仏法は「無我」になることなのです。

そこに至るのに幾多の道がありますが、何度もいうように真宗では修行が無いのです。

ただ、阿弥陀様の救いを聞くばかりなのです。

そして、時期が来ると忽然と阿弥陀様の救いに与るのです。

修行もしない、在家の愚かな私が、救いに与り、今生において、弥勒菩薩様と同じ一生補処(いっしょうふしょ)の地位(菩薩の52段階中最高位=妙覚のひとつ前の段階、次の生では必ず仏になる身と定まった地位=等正覚)にさせていただくのですから、これに勝る奇跡はどこにありますでしょうか。

世の中にはよく霊が見える方とか、霊と話される方とか、とても素晴らしい方々が多くいらっしゃいますが、そのようなことすらできない私が阿弥陀様の救いに与ったのです。
ですから多くの方に、阿弥陀様の救いに与ってほしいと思い、このブログを書いています。

では何故、凡夫である私が救いに与るのでしょうか。

その答えは仏教に聞いてみましょう。

まず、仏教の起源はお釈迦様にあることは誰でも知っている事実です。

深い哲理は他の宗教を圧倒的に席巻しています。

まず、仏教の原理は「縁起の法」として表現されます。

縁起の法とは「これ或る故にこれあり、因と縁が合わさり、果を生む」です。

非常に理知的です。

お釈迦様は八正道をお説きになりました。

八正道とは悟りに至る為の8種の正しい実践法のことで、

①正見(しょうけん)=正しい見解

②正思惟(しょうしゆい)=正しい思考

③正語(しょうご)=正しい言語活動

④正業(しょうごう)=正しい行為

⑤正命(しょうみょう)=正しい生活

⑥正精進(しょうしょうじん)=正しい努力

⑦正念(しょうねん)=正しい憶念

⑧正定(しょうじょう)=正しい精神統一

です。

本当に当たり前のことが説かれています。

ただ、正しいとは、正しくないこと(=邪)に対しての法です。

それまでのインドにおける行者の方法が正しくなく、悟りに至っていないことから、それまでの修行から区別するために説かれました。

その内容は悟りに至るための道程ですから、少しの間違いも許されない、厳しいものなのです。

例えば正しい行為とは一切の悪の無い心(私利私欲の無い心)で行う行為です。

悪がないと言うことは、煩悩の無い心ということです。

もう最初から無理難題を突き付けられています。

私たちの心は常に欲望に振り回され、一日中正しいことをしているでしょうか。

他人はいざ知らず、私の心は常に欲望に振り回され続け、あれが欲しい、これが欲しい、
老いたくない、病気になりたくない、死にたくない、と煩悩の渦中に生きています。

親鸞聖人はこのような私を罪悪深重、煩悩熾盛の衆生(=私)と呼んでいます。

このような私がどうして正しい八つの道を修めることが出来ますでしょうか。

試みに一日の行為を反省してみると、人の為になる仕事をしているはずなのに、疲れたな、早く終わりたいな、などと思うこともあります。
今日の患者さんは美人だったなとか、今日は早く帰って酒でも飲みたいな、などと考えてしまいます。

どうしようもなく凡夫なのです。

こんな私でも正しい精神統一をしようと座禅を組むこともありました。

しかし、眠くなる、雑念に苛まれる、など少しも精神統一ができません。

10分も座っていると、もう止めたくなります。

仏教を学び始めたころの自分です。

まだ、浄土真宗の門に入る前のことでした。

言葉は簡単、でもとても実践できそうもないのが八正道でした。

後で知らされることになるのですが、阿弥陀様の対象はこの凡夫である私にあったのです。

修行して悟りに至れる方ではなく、修行もできない福徳も積めない私が阿弥陀様の目標だったのです。
  

 
2013年12月16日

救いの対象は悪人!(悪人正機説とは)

親鸞様を語る上で最も有名な書物は「歎異抄」といっても過言ではありません。

その歎異抄の核心となるのが「悪人正機説」です。

歎異抄第3章に「善人なほもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや・・・」とあります。

古今東西この文章の解釈が宗教上の一大問題となっています。

その理由は悪人を法律上の悪人と同一と考えてしまうからです。

これは宗教上の悪人と言うことで、先日も書いたように修行もできない、福徳を積むこともできない、御仏の前では真に愚かなる自分が曝け出されているという事実です。

八正道の中に正業がありますが(行為の正しさ)、行為には三種あります。

身口意(体での行為、口での行為、意の中での行為)の3つです。

この行為を正しくするため、お釈迦様は戒を作られました。

その一つに十善戒があります。

①不殺生戒

②不偸盗戒

③不邪淫戒

④不妄語戒

⑤不両舌戒

⑥不悪口戒

⑦不綺語戒

⑧不貪欲戒

⑨不瞋恚戒(ふしんにかい)

⑩不邪見戒

の10種ですが、そのほか出家の方々の為には800戒もあると言われています。

在家の我々にとっては10種ですが、身で行わないから、口に出さないから、悪業は作っていないと思うかも知れません。

でも心で、人を馬鹿にしたり、蔑んだり、人の不幸を笑ったり、嫉んだり、殺したりなどしていませんか。

我々の潜在意識は体で行った行為であろうと、心で思った行為であろうと、区別なく記録されます。

つまり心で悪を思えば体で行ったことと変わらないのです。

(キリストも「汝、心にて姦淫するなかれ」と語っておられます)

潜在意識とはつまり我々の行為の記録場所(パソコンでいえばハードディスク)=業の集積場所ともいえます。

そう考えてくると、み仏の前で自分を内省する時に、己の心の行為の恥ずかしさ、あるいは自己の行為に対する絶望感がひしひしと感じられることです。

昨年の秋に仏法を求めて30年の自分がこのような経験をしました。
当時、師である三和先生にお届けした手紙を抜粋してみます。

  

三和先生

お懐かしいですね。

先生と離れて20数年たちますが、半自力半他力の若存若亡の日々を暮しておりました。
時にはくじけそうになり、他の宗教に目移りしそうになりましたが、それはそれはすべての宗教は半自力半他力の宗教で、自力聖道門の世界でした。
どの宗教も目指す所は一緒かも知れませんが、私のような機根の者にはとても難しく、挫折の連続でした。
今ではすっかり足を洗っています。

今年の夏から秋にかけて、毎日のように、起床時、嫌な気分がこみ上げ、過去の過ちばかりが思い出されました。
深い述懐をさせられていました。これが毎日のように続き、いたたまれない気持ち、生きているのが嫌になってしまう気持ちにさせられていました。

「ああああああーっ」っと長く長く続く、絶叫にも似た気持ちでいっぱいでした。真っ暗になりました。自分がやってきた30年の求道は何だったのか?
あの喜びは、もう、いただけないのか?
それでも生きていかなければならない、死んでいくこともできない、そんな情けない毎日でした。
その果てに、「こんな自分を救ってくださるのは阿弥陀様しかいない」と、ふと解らせていただきました。
ああ、二種深信とはこういうことなんだ。
機根の浅ましさを、本当にわからせていただくことなんだと、味わせていただきました。
今までの信心は自分の心の中に信心の喜びを探していました。
このころの信心は心の中の喜びが信心だと思っていましたから、喜びの時間に長短がありました。
短い時は4,5日、一番長かったのは一昨年の2年ものです。まるで漬物のようですが、本当のことでした。
それが壊れて、初めて(多分年齢のせいもあるのでしょうが)絶望を味わい、同時に阿弥陀様の救いの対象が自分であることを思い知らされました。

今思えば、すべて阿弥陀様のお育てだったのですね。それが良くわかりました。
あれほど仏様を信じている自分がなんでこんな気分にさせられるのか、良くわからなかったのです。
自分は世間を生きていくためには、プラス思考で生きていますから、こんな不思議な気分になることが信じられなかったのです。

その後この信心はいかなるものかと、毎日を送っていましたが、本当の信心とは或る面、辛い面もありますね。
自分の機根の浅ましさが日一日と、煩悩の出るたびに、冷や汗が出、縮み上がるほどの懺悔がでます。その都度、念仏がふつふつと自然に湧いてきます。
でも嬉しいはずなのに、少しも喜べないのです。
ありがたいはずなのに喜べない。
時には嬉しさもこみ上げますが、己の悪さばかり目立ち、仏様に申し訳ないことばかりしている自分が恥ずかしい限りです。

ふと歎異抄の9条が思い出されました。

真に真に私は煩悩の塊なのでした。

煩悩具足の凡夫とは自分のことでした。

三和先生ありがとうございました。蔭ながら応援していただいたおかげだと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏  



 追記

「こんな自分を救って下さるのは阿弥陀様しかいない」とふと解らせていただきました。

と書きましたが、実はこのとき真っ暗な闇の中を彷徨い、落ちていくような苦しみがありました。

あああああーと長い驚きの声を自分が吐いたのか、聞こえたのか、その時地獄行きかなーと思った瞬間、機の深心が回向され、間髪を入れず、「本願・・」と向こうから聞こえてきました。

これは法の深心も同時に回向された瞬間です(即ちこれを機の深信の回向と法の深信の回向といい、それで機法一体の深信と言います)。

その後を受けて「・・・なければ救われんわいなー」と私が思いました。

と同時に、救われたという安堵心が湧いてきました。

これが信の一念なのでした。

その時は解りませんでしたが、後に中央仏教学院に入学し、安心論題を学ぶうちに、第3章に歓喜初後という論題がありました。

ここに「安心論題綱要」からその周辺の文章を引用しましょう。

「初起一念の歓喜とは、願力の摂受に対して疑いの晴れた最初の心相であり、如来の勅命が聞こえたままの当初の心相、浄土往生が決定し、浄土に生まれることに安堵した当初の歓喜である。「信楽開発の時剋の極促」(原典版314・真聖全2-71)といわれる信心開発の初際には、口業や身業はもとより、意業に想いをかけて生じる歓喜はあり得ない。身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。・・・

まさにこのような状況なのでした。

多くの妙好人の獲信時の言葉は向こうから聞こえてきたと言われます。

本当に脳裏に阿弥陀様からお言葉をいただいたような、貫かれたような体験なのです。

しかしこの後も阿弥陀様の照育は続きます。

1年もすると本当に信心を得たんだろうかと、そう思うこともありますが、それは会者定離の寂しさだと伊藤康善氏(華光会元代表)は話されています。

そのようなことがあっても、阿弥陀様のお慈悲は常に私に注がれていると感じることが多く、嬉しさいっぱいの日々なのです。