2013年12月28日

キリスト教における「原罪」と仏教における「分別智」の考察

昨日当院のお客様でヘブライ語で聖書を学ばれているクリスチャンがみえました。

クリスマスの日の過ごし方などをお聞きし、楽しく会話いたしました。

その時得られた内容をを少し詳しく話してみようと思います。

実はこの会話の中で、ふと解らせていただいたことが2つあったのです。

1つ目は無分別智について、2つ目は信仰についてです。

始めの無分別智についてから。

キリスト教でいう原罪とはアダムとイブがヘビの甘言を聞き入れ、リンゴの実を食べたのが始まりとされています。

いわゆる知恵の実ですが、この知恵は仏法的に言うと分別智、つまり我他彼此(自己と他人を分ける考え方)の知恵と言えます。

なぜそう思えたのかを話していきます。

当院のお客様の彼女は長くクリスチャンとして働かれ、今でも一生懸命に学ばれている方です。
お客様との会話として、クリスマスの日の過ごし方などを聞いてみたいなと思いました。

「クリスマスには讃美歌などを歌うのですか」私は日本人の俄かクリスチャンと違って洗礼を受けている方のクリスマスはきっと違うのだろうと感じて聞いてみました。

「讃美歌を歌ったりはしませんが、子供たちが3本の木と言う劇をしてくれました。」

この話はご存知の方も多いと思いますので内容は省略させていただきます。

そのあとで彼女は私にこう言ったのです。

「先生はどこから来て、何をして、どこへ行くのか知っていますか?」

突然の質問でしたが、久しぶりに嬉しいご質問でした。

私から誰かにこのような質問をすることはあっても、他人からこのような質問を受けるなんて千載一隅のチャンスでしたから。

「はい、私は縁あって、30年前から仏法を学ばせて頂いております。
ですからどこから来てどこへ行くのか存じています」

この答えは彼女にとって予期しない返事だったのかもしれません。

その後ヘブライ語で聖書を学び始め、大変面白く、しかも新しい発見があったというのです。

新約聖書のルカ伝の中でキリストの処刑についての記述があります。

イエス様と一緒に十字架にかけられた罪人のうち、一人はイエス様をメシアなら我々を自分と同じように助けて見よと言いますが、もう一人の罪人は「神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのだ。我々は自分がした報いを受けているのだから当たり前だ。この方は何も悪いことはしていない」「イエスよ、あなたが御国に入られる時、私を思い出してください。」

イエス様は彼に言われた。

「真実に言う、あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」(赤字は聖書より引用)


この件(くだり)の中でパラダイスをヘブライ語聖書では「エデン」と表現しているというのです。

エデンとパラダイスでは似ているようで違うのです。

エデンはご存知のようにアダムとイブがヘビの言葉を聞いて知恵を得たために追放された貴い場所です。

つまり人類は分別智を得たがために無分別智の国(キリスト教ではエデン、仏教では浄土=我他彼此の差別のない世界))に帰れなくなってしまったということです。

無分別智とは仏教的に言えば自他不二の世界、般若心経の世界に詳しく説かれています。

キリスト教でも仏教でも悟りの世界は同じで無分別智の世界であることが判りました。

このことが彼女のヘブライ語の聖書によって分からせていただきました。

ではどのような方がエデンや浄土に入られるのでしょうか。

一般的には信仰や信心によって神や仏の助けを借りて入ると理解されます。

神や仏を信じ、かの国に入るためにはいくつかの神との契約、もしくは仏の世界では戒律を守ることが肝要です。

この契約なり、戒律なりがおざなりにされると世界は無法の世界になり、秩序が無くなります。

為政者にとっては大変遺憾な世界と言えます。

その契約や戒律を強く守ってきたのが旧来のユダヤ教であり、古来の仏教であることは周知のとおりです。

ところが親鸞聖人は法然聖人の仰せの通り「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」といわれ、善悪は関係ないと仰っています。

念仏さえ唱えれば、どんな悪も往生の障りにならないと言って、煩悩の赴くままに罪を重ねかねません。

これを本願ぼこりと言いました。

決して浄土往生の障りにならないからといって仏法を学ぶ人の姿ではないと嘆かれています。
浄土往生にはただ信心を要とすると仰られています。

次にイエス様磔の処刑の際に言葉に戻れば、イエス様の隣の罪人の罪はエデンンへの往生の咎にはならないのでしょうか。

厳しいユダヤの規律からしてそんなことは考えられません。

永遠に地獄へ行くことは否定できません。

しかし、イエス様は許されています。

その根拠は神への信仰なのです。

そうです神への信仰のみがエデンへの道なのです。

回心の使徒パウロが説いたのは実にこの信仰の大切さです。

ここでの信仰や信心がもっとも大事なところです。

神や仏を信じる心に疑いが無いことなのです。

信じるの反対は疑うことです。

言葉を変えれば信じることに2つの方向があります。

疑わない、という能動的に自己の心を運んで行く方向と

疑いがない、という受動純粋な心です。

もう少し判りやすく言えば、誰かにこの食物には毒が入っていないから食べて、と言われて「うーん、信じて食べます」が能動的な信仰や信心といえます。

赤ちゃんが何も言わずにお母さんの母乳を飲んでいる姿が受動純粋な信心です。

つまり「疑わない」ではなく「疑いが無い」、これが本当の信仰や信心なのです。

対象物と不二の世界なのです。

新約聖書の中でイエス様も仰っています。

「赤子のような信仰が必要である」と。

そうなると先ほどの罪人はイエス様や神について疑いのない信仰と言えたのでしょうか。

そうなのです。

死を直前に迎えたために、通常の心理状態ではなく、神より信じさせられた信仰に他なりません。

生き方の善悪より、神を信じることの大切さを物語っています。

これで長い間、胸につかえていたものが府に落ちたような気がしました。

全ての生きとし生けるものは皆、神の世界より発生し、人間はみな神の子、仏の子である、がゆえに神仏の方より見ると、救わずにはおれない対象が私たち人間なのだと。

信仰や信心については神や阿弥陀様の世界から見ると、よく見えるのです。