「根本無明」すなわち本願疑心
  
 
 浄土真宗の学問や法話の聴聞を繰り返していると、なにか良く解ってきたのだが、どうにもスッキリしないのです、心が晴れないのです、という学院の生徒さんや門信徒さんの声を耳にすることがあります。

信心求めて幾年、いや幾十年も過ぎたのに、どうして私はスッキリしないのだろう、信心をいただけないのだろうか、宿善が無いのだろうかなどと悩む人があります。

当然と言えば当然です。

誰もが罹る獲信前の苦悩です。

この問題については先哲であらせられる加茂仰順先生が、右の「名号不思議の信心」で説いていらっしゃいます。

この問題は私も長く長くかかった問題です。

たとえ見仏した、霊夢をみたからと言って解決できるものではありません。

仏の霊夢や見仏の体験は20願の信心で、真実信心ではありません。

このモヤモヤは実は三毒の煩悩よりはるかに質の悪い無明で根本無明と呼ばれています。

あまりの苦しさから「もうこのままでいいや。このまま来いの仰せや」などと言って自分で納得したりもします。

または自分の頭の中にプチ阿弥陀様を作りだし、プチ阿弥陀様から「○○を助けるぞ」と呼んでもらって、信心を得たような気になっている方もいらっしゃいます。

学問を続けてきた方が陥る問題の一つでもあります。

疑いが無いのではなく、疑わないのを信心と取り違えることも良くあることです。

また、なかなか信心が頂けないと「18願の信心はいただけないが、20願の信心でも化土まではいけるので、それでもいいのではないか」と思ってしまう方もありました。

これらの信心を分析すると、18願の信心をいただいていないと理解している人と、頂いていると誤解している人に分かれます。

何れにしてもこういう状況の時は次の質問を自分にしてみてみると良く解ります。

「今が臨終や、あと3ヶ月の命と宣告された」と死を目前に引き寄せてみると、いかがでしょうか?

オロオロしたりしませんか?

私などこんなことはしょっちゅうでした。


これ何故なのでしょう?

本願力を疑ってなどいないのに、どうして、と思うのです。

実はこれは本願を疑っているからです。

この本願疑心という根本無明は自分では取り外せません。

ムリですから諦めましょう。

この根本無明を取り外してくださるために、どれだけ法蔵菩薩さまはご苦労されたことでしょう。

そのご苦労の一旦でも味わってみてください。

例えば天台宗の千日回峰を実際できますか、念仏一日1万回唱えられますか、それも100日も立ちっぱなしの行です。

私は11日間の他の宗派の研修を受けたことがあります。

とても苦しくて辛いものでした。

それで何を得たというのでしょう。

何も得られるものは無かったということが得られました。

ああ、やっぱり真宗でないといかん!

そんな思いで帰ってきました。

会社も辞め、家族に迷惑をかけ、両親に多大なご苦労を掛けてしまいました。

ただ、あのままサラリーマンを続けていたら、きっと信心は頂けていなかったろうと思います。

自営業になり、苦労して、初めて人生の重さと、目的は何かを知らされたと感じています。

そして、この本願疑心という根本無明とあらためて向き合うことになったのです。

三毒の煩悩などものともしない諸仏様でも、この根本無明はどうすることもできずに、ただ、阿弥陀如来を頼めと仰っていてくださるのです。

ただ、この根本無明の存在が分かるのは信心を求めたからです。

仏教を求めようともしない人には分かりません。

なぜなら阿弥陀様の照育の光明に預かったから、その存在に気付かされたのです。

この辺の事情を蓮如上人と当時の禅宗僧侶「一休」さんとの手紙のやり取りが、とても興味深く物語られています。

一休さんからの質問
 
 阿弥陀には  まことの慈悲は  なかりけり
   たのむ衆生  のみ助ける

蓮如上人からのお返しは

 阿弥陀には  へだつる心  なけれども
   蓋ある水に  月は宿らじ


これは私たち衆生の心に疑蓋心があり、なかなか取れないものだということです。

この疑蓋心を取ってくださるためのご本願です。

ただただ、仰ぎきるほかにはないようです。



私の師匠と今年の7月に再会することができました。

20年ぶりでした。

嬉しくて涙ものでした。

私の獲信を大変喜んで下さり、その後の三和先生の近況などを伺っていました。

その時のやり取りの中で

「どうして信心を得られない方があるのだろう」と三和先生。

答えはご存知なのにそう質問されたのでしょう。

私は「善知識を通して法の流れが入ってくるからでしょう」とこたえとところ

「そうなんですよ」との答えでした。

どんなに聴聞を繰り返しても、善知識から直接うかがうか、獲信者の著作を拝見させて頂かないと、なかなか難しいね、との返答でした。

蓮如上人の御文章2帖目11通に「五重の義」があります。

十劫秘儀や善知識頼みを批判されたものですが、

・・これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生かなふべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。・・・

とあります。

また、華光会を主宰された故伊藤康善師の著作「仏敵」に主人公が苦労して善知識を求め、かつ信心を得るまでの苦労話が載っています。

また久保龍雲師のサイト(ゼロから分かる浄土真宗)でも信心に至るまでに根本無明に出会い、ご自分も苦労されたことを話されています。

しかも根本無明は自分ではどうしようもないと知りつつ、投げやりになりながらも聴聞を繰り返し、いつしか獲信した、と。

つまり疑蓋心を阿弥陀様から取り除いて頂いたと告白されています。


また、平成29年1月13日親鸞聖人報恩講特別講演で森田真園師は師匠である村上速水師の話をされて居ます。

それによると村上速水先生は門下生を自室に呼び、「今まで、嘘をついていた。申し訳なかった。(このことは森田先生のご著書「
初めての親鸞さま」にも載っています)」と謝罪されたというのです。

それは自分はすでに獲信していると話されていたのでしょう。

ところが本当に獲信されたことを知ったのは、ご自分の老妻が亡くなられてから、しみじみと解らせていただいたと云うことです。

これらの話は信心をいただくのがとても難しく、大学の教授でさえ間違うことがあると言うことです。

ただ、尊敬すべきは村上先生の態度ではないでしょうか。

過ちを過ちと認め、騙していたという悔悟から皆の前で謝罪したということです。

誰に出来ますでしょうか。

黙っていれば誰にも知られず、自尊心も失わなかったはずです。

でもこの行為は如来様が知っています。

私もこの話を聞いていよいよ村上先生を尊敬申し上げています。

先生の著書を通してしかお目に掛かれませんが、中央仏教学院のテキストにも先生の執筆されたものがございますので、嬉しく拝見させて頂いています。

話が流れてしまいましたが、本願疑心が自分にあると知れたことは、大変素晴らしい事なのです。

阿弥陀仏の光明によるお育てに預かっている証拠です。

この疑蓋心あると分かったら、「阿弥陀様をたのみとせよ」がいよいよ肚に入ってきます。