2013年12月19日 不安障害と仏法・・・1 私の仕事はカイロプラクティックです。 職業柄腰痛や肩こりの方が私どもの患者さんですが、その中でも単純な腰痛や肩こりではなく、奥にメンタルな疾患を抱えた方が大変多くいらっしゃいます。 うつ病やパニック障害、発達障害、また実に多くの不安障害を抱えた上で、身体に不調を訴えられて来院されます。 現代のメンタル疾患の大半は根底に不安障害を抱えています。 この不安障害と対処するには最近では仏教の力を借りているところが多いようです。 NHKでも放送されたことがあるので、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、「瞑想」が良く効くということです。 一例をあげます。 「まず静かなところで、座禅をくみましょう。 続いて、静かに瞑想します。 瞑想しても初めての方や不安障害を持っていらっしゃる方は、次々と雑念に襲われますが、それで結構です。 その雑念の処理の仕方を解説します。 まず、自分が森の中の小川の傍にいると感じてください。 次にその静かに流れる小川の上に一枚の木の葉が浮かんでいる様子を思い浮かべましょう。 次々に浮かんでくる雑念や妄想はその木の葉に乗せて流してください。 そうして、少しずつ雑念や妄想から解放されましょう。」 実際にこの方法を患者さんに試していただいたこともあります。 少し訓練すれば、誰でもすぐにできるようになります。 こうして、本来の自分を取り戻せれば、少しずつ不安障害も改善されます。 時間がかかりますが、今の所もっとも良い方法の一つでしょう。 もう一つ内観法と言う不安障害対策があります。 特に有名なのは吉本伊信先生の開始された内観法です。 浄土真宗系の信仰集団・諦観庵に伝わっていた自己反省法・「身調べ」から秘密色、苦行色、宗教色を除き、万人向けのものとした修養法と紹介されています。 ここでなぜ浄土真宗を学ぶ方々がこのような内観法を編み出したかと言うと、信心とは何かと言うことに起因します。 浄土真宗の信心は二種深信、つまり機の深信と法の深信の2つの面ですが、いただくときには同時と言うことになります。 機の深信なき信心もなく、法の深信のない信心もないわけです。 この2種深信の中で機の深信、つまり自分が凡夫であり、地獄しか行きようのない身であることを深く信じること、これを徹底する方法として考えられたようです。 深く自己を内省することにより、いかに自分が救いようのない、地獄しか行きようのない身であることを知ることを目標としているようです。 この方法によりうまく自己の愚かさを知ったとしても、そこに阿弥陀様の救いがなければ、本当に地獄に落ちかねません。 事実、当院の患者さんの知り合いで、内観法を実行したところ、恐くなってしまい、病気がますます悪化したということも聞いています。 そのため、内観法を止めたということです。 この内観法から宗教色を除くということは2種深信のうち、機の深信のみになり、法の深信が欠けてしまいます。 そうなれば当然、出口のない闇の中にとどまり、恐怖と不安ばかりになってしまいます。 この時、法の深信に出会えるような縁を頂いておれば、「信心」を頂ける可能性もあるというものです。 不安障害、鬱の方などは悩みの天才でもあります。 限りない自己否定の連続が特徴ですから、無闇に薬などで症状を抑えてしまわず、浄土真宗の御教えを聞かれることをお勧めいたします。 人間の生まれて来た目的、人生の目的が明らかになります。 では親鸞聖人は人生の目的をどのように教えておられるのでしょうか。 拝読「浄土真宗のみ教え」より、抜粋してみます。 人生そのものの問い 日々の暮らしの中で人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。 この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。 目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。 親鸞聖人は仰せになる。 弥陀の誓願は無明長夜(むみょうじょうや)のおほ(お)きなるともしびなり 「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。 この灯火をたよりとする時、「なんのために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、 この問いに確かな答えが与えられる。 大いなる宗教家はすべて悩みの天才です。 不安の中でその解消に努められ、精進された方々ばかりです。 そして必ず、如来様に出会われています。 もし、このブログを読まれていらっしゃる方で、不安障害や鬱から解放されたいという方は、是非親鸞聖人のみ教えを学んでみてください。 おススメの参考図書(私は本願寺派の出版物を薦めています) 「はじめての親鸞さま」森田真円著 本願寺出版社 |
2014年10月23日 不安障害と仏法・・・2 不安障害と言うと最も有名なのがパニック障害です。 当院のお客様の中にもたくさんのパニック障害の患者さんがいらっしゃいます。 一様に予期不安や広場不安を感じ動悸や息苦しさや死ぬのではないかと言う不安に駆られます。 車内などで起こると苦しさのあまり、直ぐに降りなければ窮地を脱しきれない辛さにかられます。 発作は10分位で収まる場合が殆どですが、電車に乗ると起こるのではないかと言う予期不安に悩まされることになり、急行電車や渋滞などの状況を嫌います。 また、多くの人と会わなければならない広場なども嫌がります。 この原因はヤフーヘルスケアのパニック障害にも詳しく載っていますが、あまりにも心療内科的過ぎて脳内のホルモンや神経伝達物質についての記述が多すぎて、そこに至った患者さんの心理的事件やトラウマに関する分析が少ないように思います。 また、現実的対応策も少なく、十分ではないように思います。 当院の患者さんには次のように話しています。 「原因についてはゆっくり考えましょう。 もっとも大事なのは対応策です。 パニック障害で死んだ人は一人もいません。 あなたがパニック傷害の発作を起こした時のことを思い出して下さい。 10~20分で治まっていませんか。 死ぬことはありませんから、ゆったりと構えて、深呼吸を繰り返し、副交感神経を刺激しましょう。 パニック障害と言えど自律神経失調症の一つです。 交感神経が異常に興奮しているだけですから深呼吸で落ち着きましょう。」 と話します。 実際、当院の患者さんにその話をしてあったので、良かった例があります。 彼は急いでいたため、ホームに入ってきた電車に思わず飛び乗ってしまいました。 乗り込んですぐにこれは急行だと知りました。 「わあー、大変だ」と思ったとたん息苦しくなり始めました。 その時私の言葉を思い出し、 そうだ、死ぬことはないんだ、落ち着こう。 さあ、深呼吸をしよう。 と自分に言い聞かせ、深呼吸を始めたところ、次第に落ち着き、発作を起こさずに済んだとのことです。 以前パニック障害を調べていたころ面白い記事を見つけました。 その記事によれば、パニック障害を起こす方の大半は自己拡大の欲求を抑制されて起こると言います。 簡単にいえば自分が無視されたり、疎外感に悩む方に多く、自己の存在を他人に認知して欲しいという欲求が病気と言う形に表していると言います。 たとえば子供が親の関心を引くため病気になるようなものです。 特に第2子が生れると、親の関心は下の子に向きがちです。 無視されたと考えた兄や姉は親の関心を引くため、わざと怪我したり、病気を作ったりします。 勿論、関心を引くためとはいえ、仮病では困りますから、実際に病気を起こしてしまいます。 潜在意識にそのように命令し、自身でも知らないうちに病気を惹起してしまいます。 パニック障害もこのバリエーションと考えるとよく解ります。 周囲から特に男性なら職場、女性では職場以外に家族から浮いてしまったと思うときに起こることから、この考え方も一理あるなと思います。 さらにいえば、なぜ10~20分で発作は収まるのかというと、発作中は周囲の方も何事が起ったのかと思い、患者さんに注目します。 注目されれば患者さんは一定の目的、「自分はここにいるんだ、解って!」という潜在意識の欲求が満足されます。 しかしいつまでもこの状態でいると最後にはまた見捨てられるか、本当にもうこの人はダメだという烙印を押されかねません。 そこで10~20分位で発作を収め、「もう大丈夫です」と一連の自己演出を終えます。 これが真相だとすれば、そのことを理解させてあげるのも方法ですが、著しく患者さんのプライドを傷つける恐れがあるので、この説は自分の中にしまってあります。 患者さんとこの話をするときは、「死ぬことはないから安心して。苦しいのも10分くらいだから。深呼吸だよ」と安心していただきます。 この時、私は「拝読 浄土真宗のみ教え」の凡夫の段を思い出しました。 凡夫 親鸞聖人は仰せになる。 凡夫と言うは 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲も多く いかり はらだち そねみ ねたむ心多く ひまなくして 臨終の一念にいたるまで とどまらず きえず たえず 凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。 すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。 仏法に出あうとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。 念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。 誰も自分が悪い人間だとは思いたくないし、思ってもいない。 何かが起これば「それは私が悪いのではなく、○○さんが悪い」と言ってしまいがちです。 世の中は善人ばかりです。 善人ばかりだから、常に争い事が絶えません。 個人間の争いも国家間の争いも全て自分が善人で相手が悪人なのです。 本当に自分の姿を見せつけられた人は幸いです。 阿弥陀さんの願いのほかに誰が私を救いようのない悪人と喝破してくれましょう。 しかも救いようのない私を抱き取って下さるのが阿弥陀様です。 何ともったいないことでしょう。 有難くて涙が止まりません。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏 合掌 |
2014年10月28日 不安の心の底にあるもの 不安の対象は何でしょうか? 不安とはどこからくるのでしょうか? また、不安の正体は何なのでしょうか? 本当はよく解っているけど、知らないふりをしているだけなのかも知れませんね。 まず、不安の対象ですが、衣・食・住を始めとして、健康・経済・人間関係など多岐にわたります。 また不安はどこからくるのかというと、衣食住や健康・経済などからくる不安は自分の心の内側からきます。 でも対人関係などは自分一人の問題ではなく、必ず相手がいます。 相手から齎(もたら)されるとも言えますが、自分が変われば未来と相手は変わりますから、結局のところ自分の内側と言えそうです。 そしてこの不安は何故不安として捕えられるのでしょうか。 言葉を変えれば不安の正体はいったい何なのでしょうか? それは間違いなくすべての不安は自己の拡大を阻害し、あるいは阻害だけでなく自己の存在そのものの否定につながるからです。 簡単に言えばすべての不安はつまるところ「死」に結びついていくと言えます。 パニック障害などの発作は死へ繋がる症状だと感じてしまうから怖いのです。 普段は出来るだけ「死」と言う概念から離れて生きているのに、不安は自己の欲求とは関係なく、眼の前に「死」を浮かび上がらせるのです。 「あなたの病気は癌です」と医師から宣告されたら、あなたはきっと「死」を引き寄せて考えてしまうでしょう。 医師から無表情な顏で余命を言い渡されたら、冷静ではいられなくなるはずです。 人は必ず死ぬということが判っていますから、普段はわざと遠ざけてきましたが、いよいよ、自分の番が来たということを、思わぬ時にやって来たから、動転してしまいます。 ここに室町時代の僧侶であり、真宗8代宗主「蓮如上人」の白骨の章のくだりがあります。 蓮如上人と言えば同時代に臨済宗の一休禅師が有名ですが、この白骨の章は一休禅師をして「素晴らしい!」と言わしめたほどです。 白骨の章に刺激されたとも言われている禅師の句に次のようなものがると言われています。 門松や 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 浄土へ行く人にとっては目出度いが、地獄へ行く人にとっては目出度くない、そういう意味でしょうか。 さて、その白骨の章を頂きましょう。 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期なり。 さればいまだ万歳の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。 いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。 われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすえの露よりもしげしといへり。 されば朝(あした)には紅顏ありて夕べには白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顏むなしく変じて桃季(とうり)よそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。 されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。 注釈版聖典 1203項より 戦国時代の到来とはいえ明日の命さえわからぬからこそ、急ぎ後生の一大事を解決せよとの教えです。 昔でも現代でも明日の命は判らぬものです。 不安とはその根底から来ます。 死んだら自分はどうなるのだろう? この疑問のような不安こそ、或る意味、大いなるものからの、お誘いなのかもしれません。 死んだらどうなるのかと言う驚きが大切です。 この驚きがあって初めて後生が気になり、解決しようと考えるのではないでしょうか。 これを「驚きが起つ」と世間では言います。 この驚きが起って真剣に仏法を求めて、30年 信心を頂くまでの時間です。 これは愚かな私(死なんて遠い世界の話と思っていた若かりし頃)がそれなりに真剣に求めた結果です。 道草を沢山たくさんしました。 その道草一つ一つが、全て阿弥陀様のお導きだったのだな、と今は思えます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 懺悔と感謝の 南無阿弥陀仏です。 |