南無阿弥陀仏とは 

   「壮大な仏教の世界観」 と題してご挨拶させていただきます。

序章 生きる目的

人生の目的とは一体なんでしょう?
誰もが自分探しをしているわけではありませんが、
ときに縁あって、とても人生に懐疑的になり、
自分の生まれてきた目的を探す方もいらっしゃいます。

ここで言う人生の目的とは目標とは違います。
目標とは大統領になる、金持ちになる、博士になるなど人生の地位や名誉を得ることですが
目標は達成しても次の目標ができます。

しかし生まれてきた目的はただ一つです。
達成できたらその人生が完成するのです。
「ああ、生まれてきた目的はこれだったんだ」
「目的を達成できて人生が完結した」
この喜びを得ることです。

2500年前インドに誕生されたお釈迦様が示された教え、
すなわち仏教とは
仏陀の教えであり、
それは全ての人類が仏陀になる教えでした。
はるか昔から六道輪廻して迷いの世界から抜け出せない
われわれ人間に六道解脱の道(修行法)を伝えてくださった方です。

修行の方法に大別して2つあります。
1つ目は自力聖道門の道
2つ目は他力浄土門の道

自力聖道門とは厳しい修行の末に自らの力で
悟りを開き、お釈迦様のように六道解脱することです。
ところが私のような哀れな凡夫はこの修行が厳しすぎて
とても難しく不可能な道です。
そんな私を憐れんで凡夫の為の道
すなわち他力浄土門を開いてくださったのです。
その教えの核となるのが
上記の六字の名号です。

この六字の名号の謂れを「聞く」 これが人生の目的です
親鸞聖人が伝えてこられた他力浄土門こそ私のような
凡夫の唯一助かる道です


一人でも多くの縁ある方に触れていただければ幸いです。


第1章 信心を得るとどうなるのか

仏教は天地創造説を超える、はるかな無限・絶対の世界から私たちを導いてくれる話なのである。

その話をする前に少し時間をください。

まず、あなたは霊魂を信じますか?

死後の世界を信じますか?

幽霊を見たことはありますか?

あなたのご先祖や身内の方で亡くなった方はどこに行ったのでしょうね?

どなたかあの世の方々と交信できる方をご存知ですか?

あなたは神々を信じられますか?

迷える霊に取りつかれたという話を聞いたことはないですか?

そんな話は眉唾ものだと言って、非科学的だ、などと笑い飛ばしますか?

世界の著名な科学者や芸術家も死を目前にしたとき、未来が真っ暗なのに驚いたのです。

今まで死後の世界なんか無い、死ねば終わりだと考えていたのに、いざ自らの死に臨んでみると自分の考えてきたこと、やってきたことは何にも役に立たないことが分かったのです。

西洋哲学しかり、現代科学しかり、生命と死の神秘についてはなにも語れないのです。

貴方は何と答えますか?

「死んだらどうなるのか?」の問いに!

本物の宗教はこの問題に解答を与えてくれます。

そうでなければ似非宗教です。

現世ご利益の教えばかりの宗教はそれこそ眉唾です。

神々を祀り、ご利益を得るというのは、そもそも無理です。

多少の利益があったとしても、死を解決してくれる宗教は皆無に等しい。

なぜならこの世を含めあの世まで、因果応報は不変の真理だからです。

お釈迦様の発見されたのはこの真実です。

そして現在の姿は過去の行いによって決定されてきたのであるから、現在の姿を見れば過去の姿が分かり、現在の姿をみれば未来の姿が分かる、と仰られたのです。

人間関係に悩みつかれている方、仕事に悩んでいる方、今死にたいほどに悩んでいる方、死んでいる場合じゃないですよ

近代仏教の中には現代教学とか言って、死後の世界をぼかしてしまっている宗教もありますが、これは真実から目を背け、信者の心を迷わしているのかも知れません。

とても聞き触りの良い言葉や教えはややもすると真実に目を背けるものかも知れません。

学門先行の学者さんや宗教学の専門の方に多く見られる傾向です。

在野の一般信徒や真宗でいう妙好人の方々のほうがはるかに宗教的で、ステキな人生を送られ、未来(死後の世界)を確信されている方が多いようです。

なぜなら彼らは絶対者との感応道交をさせて頂いているからです。

その為彼らの言動は現実味から逸脱しているように感ずるものです。

讃岐の正松(しょうま)のような言動は一般人には理解しにくいものです。

ある時村人たちと船に乗っていた時のことです。

嵐に見舞われ、今にも船が沈みそうな時、正松は寝ていたのです。

驚いた村人が「正松、起きろ、船が沈むぞ」と声をかけたのです。

はっと目が覚めた正松は「なんだ。まだ娑婆か」と言ったとか。

この話を聞くと、イエスキリストの船の事件を思い出します。

やはり嵐の中で船が沈没しそうな時、弟子たちから「先生、船が沈みそうです」
との声に、目を覚ましたイエスは「信仰少なき者たちよ」といって、手を空にかざすと、海は静まり帰ったと言うことです。

正松にとっては生きていようが死んでいこうがどちらでも構わないのです。

たとえ死んでもその先は浄土なのですから、なにも心配はいらないわけです。

こんな達観が普通の人にできるでしょうか。

信心を得たからこその話です。



第2章 仏にはどんな力があるの

浄土真宗での根本経典は「無量寿経(大経)」「観無量寿経」「阿弥陀経(小経)」の3つですが、この中に浄土の因と果とが説かれてあり、浄土の美しい姿が説かれています。

そして仏の力が示されています。

一念の内に諸仏国土を巡り、礼拝し終わります。

これは六神通の一つの神足通です。

このような神通力はお釈迦様の教えの中にすでに現わされています。

Wikipediaから拝借してきました。
   
パーリ語経典の長部の『沙門果経』においては、釈迦がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者)の果報を問われ、まず戒律順守によって得られる果報、次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べられている。
 
(四禅の次に)「自身の身体が、元素からなり、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる(=「身念住」(身念処)) 
 
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出すことができる
 
( その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる(以下、神足通)
  「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
「梵天の世界にも到達できる」
 
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる 
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
  
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心痛)を獲得する」ことができる
  「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いの心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」
 
(その次に)「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
  「1つ、2つ・・・10・・100・・1000・・10000の過去を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成劫)、壊滅(壊劫)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」
  
(その次に)「生命あるものがその行為(業)の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」
  
(その次に)「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
  「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、四聖諦)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」

                             以上参考文献より

いかがでしょうか。

修行中であってもすでにいくつもの不思議を体験出来ていくのです。

しかも仏陀として修業を完成すると六神通力を得られるのです。


こういった力の一部を頂いた方が、時に、この娑婆世界に降臨さえることがあります。

真宗では還相回向の一つではないかと思われています。

私の師匠の知り合いの方でそういう方がおられました。

1,000年くらいの過去世なら分かりますと仰られたそうです。


こうして仏になると、次には衆生が哀れに見えてきて、何とか助けたいという心が生まれてきます。

これが慈悲心というものであり、仏の慈悲ですから大慈悲と申します。

その大慈悲心から生まれたのが法蔵菩薩の48願です。

浄土教3部経の中の観経に韋提希夫人を助けるため空中をかけて釈尊が幽閉されている地下牢に現れたと表現されていますが、これは神話ではなく、上の神足通の力なのです。

にも拘らず、一部の学者はこの話は比喩であるなどと言って、憚らないのは残念なことです。

お釈迦様の初期の経典は上座部で継がれてきた阿含経典が中心でしたが、大乗教になっていくと衆生を再度するのが仏の真の目的だということに、発展した経典が生まれてきます。


その意味は上座部での修行は衆生から仏に向かう道のりとしての行ですが、大乗では仏から衆生に向かう道のりに変わるのです。

なぜなら、上座部では修行できる方のみが仏になれ、修行しない者は仏になれないのですが、大乗では仏になる要素すらない悪衆生を助けたいという大慈悲心により、仏願力を信じる一念にて助かるという奇跡が起こるのです。

長々と書いてきましたが、何を言いたいのかといえば、「仏とは、なんぞや」という問いへの回答は上記に書いてきたようなことができる方ということです。

大慈悲は仏の智慧から生まれたものです。

「阿弥陀さんは私たちを助けるぞ」という話を聞いたなら、私と仏の違いを徹底的に追及してみないと本当の意味で理解できません。

理解しただけではなく、阿弥陀さんの心を頂くことがなければ、ふっと助かるということあるべからず、と蓮如さんは仰せられています。


もう一つ仏智不思議についての話に「5つの不思議を説く中に仏智不思議が一番である」と言われています。

五つの不思議とは「論註」(真仏土巻引文・註360)に諸経の説として挙げられる5種の不可思議の事。

①衆生多少不可思議

②業力不可思議

③龍力不可思議(龍神が風雨をおこす不可思議)

④禅定力不可思議(禅定の力により神通をあらわす不可思議)

⑤仏法力不可思議(仏法の力により衆生にさとりを開かせる不可思議)

親鸞聖人の「高僧和讃」には

いつつの不思議をとくなかに  
 仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
 弥陀の弘誓になづけたり

とあり、阿弥陀仏の本願を仏法の不思議とし、五不思議の中でも最上のものとしている(浄土真宗辞典より)。


第3章 親鸞聖人と神々の関係

真宗を学んでいらっしゃる方々の中には神々の持つ力を神話として片づけてしまう方が多いようです。

そのような方々は神々の力は迷信であるといって、仏教ではあり得ないなどといわれます。

また現代科学と矛盾しない範囲で教学が組み立てられていることが多いのです。

そのため神通力のことなどを話すと嫌がられます。

更に阿弥陀様の姿を拝見させていただいたというようなことを話そうものなら、「あなたが見たいと思っているから潜在意識が働き、見たような錯覚におちいっているのですよ」などと返事がきます。

現代教学では「見仏」は信心の条件ではありませんが、初期の無量寿経には「阿弥陀仏の姿を見たものは往生できる」「阿弥陀仏の声を聞いたものは往生できる」と記されています。

これからすると「聞其名号」の聞とは直接阿弥陀様からの声を聞いたこと、と解釈でき、仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し、というのは「誰から聞いた」という問いにもなります。

法話で聞いて疑心を無くす場合もあります。

これが殆どでしょうが、法話を通じて阿弥陀様の慈悲が、その時、末通ったのでしょう。

さらに信心を求めてもがいてもがいて苦しみぬいた結果、直接阿弥陀様から「助けるぞ」の声を聞いた方もあることと存じます。

また中には夢の中で阿弥陀様に抱かれ、オイオイと泣き、信心を得られた方もあります。

信心を頂く過程は人それぞれで、それこそ機に合わせて阿弥陀様が丁度良い時に回向くださるのですね。

ですから親鸞聖人は「信心を得る時はこうである」とは一言も仰せられていません。


脇道にそれてしまいましたが、ここでは信心獲得の中身について議論するつもりはありません。

神々を親鸞聖人はどう見ていらっしゃったのかということが本題です。

親鸞聖人の伝記では「夢告」のことがいくつか出てまいります。

有名な所では比叡山を降りられた29才の時の「六角夢想」、建長八年(1256年)「蓮位夢想」があります。

また、神々との対話としては「熊野霊告」が有名ですが、ここで親鸞聖人は熊野権現について話されています。

「熊野本宮の権現は、衆生を本願海に招き入れようとして日本に現れた阿弥陀如来そのものです。ですから、お念仏の道を進んでいる者は、阿弥陀如来の誓願を信じて、普段どおりの姿で熊野権現にお参りしなさい」と仰いました。

ここでは本地垂迹説が取られていますが、親鸞聖人はむしろ神仏護持説を取られていたのではないでしょうか。

教行信証の化身土巻の中で涅槃経や般舟三昧経などを引用され、仏教に帰依するなら、決してその他の様々な天の神々に帰依してはならない、鬼神を祀ってはいけない、日の善し悪しを選んではならない、とされています。

その後で【85】から『大集経』「日蔵分」(星宿品)を引用され、佉廬虱咜仙人(かるしったせんにん=釈尊の前世)が天の神々に世界を守れと仰っている部分が引用されてきます。

かなり長い引用です。

この項を読んでいると仏教に帰依している人、仏道修行中の者をあらゆる苦難、悪魔から守りなさいと仰っていらっしゃいます。

親鸞聖人は決して神々の世界をないがしろにはされていません。

むしろ仏法を護持されている神々を受け入れられています。

私たちも諸仏・神々から常に守られているのですから、信心獲得へ勇猛精進致しましょう。

また、信心得たものは後進の為に、優しく導きましょう。

20願の信心から18願の信心までは、短い人もあれば、30年も長きにわたって至る人もあります。

諦めてはいけません。

求めた先に信心があるかどうかは分かりませんが、求めなければ得られることもないです。

何十年求めても得られないと、苦しさのあまり、もういいやと思うこともあります。

それでも求めずにはおれないのが求道者です。

また、疑心あること無し、の言葉に安住し、「疑っていないから、もう大丈夫」と自分で安心してもいけません。

「信心得たはずだが」もその言葉通りだといいのですが。

とにかく信心を得ることは大変です。

お互いに励まし合いながら求めようではありませんか!

                               文責 志田泰久
  

閑話休題

キリストの教えの中で、「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という話があります。

難しいと言ってるのですが、不可能とは申されていません。

ではどうすれば良いのでしょうか?

簡単なことです。

全ての資産を寄贈して無一文になれば天国に行けるというのです。

この一文が大きいのです。

折角築いた資産を投げ捨てることができますでしょうか?

これがすなわち神への信仰が試されることなのです。

似たような話が仏法にもありました。

曇鸞太師の著作「浄土論註」下巻に「・・それ須弥を芥子に入れ、毛孔に大海を納む、あに山海の神(じん)ならんや、毛芥の力ならんや、能神のひとの神(じん)ならくのみ」とあります。

本願寺出版の教行信証現代語訳によれば「須弥山が芥子粒に収まり、大海が毛穴の中に収まるといわれるが、須弥山や大海に不思議な力があるのではなく、また芥子粒や毛穴に不思議な力があるのでもない。ただ、不可思議な力をそなえた仏のはたらきをあらわしているのである」と出ています。

仏の力を思ってみましょう。